事業家の祖父のDNAを受け継いで

事業家の祖父のDNAを受け継いで

田中さんは、大きな苦労もなく、トントン拍子でここまで来た」 

周りからはそんな風に見られがちですが、実は波乱万丈な道を歩んできました。決してエリートではなく、遅咲きの「たたき上げ」です。

これまで自分の過去を話す機会もあまりなかったので、そう思われるのも無理はないかもしれませんね。

だからこそ、この機会に私が「どのような環境で育ち、どんな経験をしてきたのか」という、これまでの歩みについても知ってもらえたらなと思いました。

決して自叙伝や、お涙頂戴の成功物語にしたいわけではありません。でも、自分でいうのもなんですが、なかなかに波乱万丈な人生でもあります。

ここからはそんな私の半生を、時には笑い話も交えながらご紹介していきますね。



商売人の家庭で育った幼少期

1963年、私は大阪で、田中家の次男として生まれました。

実家はアンビシャス本社からも近く、子どもの頃は空堀(からほり)商店街が遊び場でした。そこで営まれる色んな商売を眺めるのが、子どもながらに好きだったんです。

田中家は、曽祖父の代から機械設計や食品の彫刻の会社を経営していました。

曽祖父から経営を引き継いだ祖父は、かなりのアイデアマン。機械設計から生産、商品のデザインまで一手に手掛けており、祖父の時代の我が家はかなり裕福な家庭でした。

皇居に招待されることもあり、政治家の谷町(パトロン)をしていた時期もあったほどです。

また当時、私は親戚中から「正はおじいちゃんの血が一番濃いなぁ、よう似てるわ」としょっちゅう言われていました。

顔も発言も、祖父にとても似ていたようで、子どもの頃「僕は将来、総理大臣かヤクザの親分になる!」などとよく言っていたそうです(笑)。

今思えば、こうして事業をおこし経営しているのも、祖父のDNAなのかもしれません。

小さい頃から、祖父や父が働く姿をすぐそばで見て育ちました。機械の図面を引くことも多い仕事なので、父からは、「正、物理や数学をちゃんと勉強しておけよ」とよく言われたものです。

とはいえ、子どもながらに「家業を継ぐには相当頭が良くないといけない。自分にはちょっと無理だな…」と、薄々感じていました。

 

ところがある時期から、状況が一変。

父親の代で家業の経営が傾き、借金が膨らみ、家にはヤクザの取り立てが来るようになったのです。

母親は元々、大金持ちの農家の娘。そんな中、嫁いだ先が、みるみるうちに傾いていった。母親にとっては「自営業の不安定さ・危うさ」を身をもって体験することとなりました。

そのため、母は幼い頃から私にずっとこう言い聞かせていました。

「正は、スーツを着て会社へ通う、勤め人になり!自営業は絶対にやめておきや!」

と。

そしてその言葉どおり、私は30代後半までは会社員の世界で生きていくことになります。



意外と優しかったヤクザのおっちゃん

両親の不在時、家にヤクザの取り立てが来た時、そのヤクザのおっちゃんに対応するのは、兄ではなくいつも私でした。

家に取り立てがくるなんて、ドラマみたいな話だなぁ」と思うかもしれませんが、本当の話です。

ただ、当時のヤクザのおっちゃんには、意外と義理人情がありました。

何回も対応しているうちに「お前、飯食うたか?」と聞いてくれるようになり、「食うてへん」と答えると、家の前のうどん屋さんから出前を取ってくれました。そして、帰り際には「これでまた、ええもんでも食うとけ!」とお小遣いまでくれたんです。

父には「うらぁー!はよ金返せ!」と凄んでいたおっちゃんが、子どもの私には優しかった。

お前、腹も座ってるし、ガキのくせに大したもんや。将来はうちに就職するか?」なんてスカウトまでされたくらいです(笑)。

今思えば、子どもながらにあのような修羅場を経験したことが、後に経営者として「腹を括る」感覚の原点になっているのかもしれません。

黒板に書かれた「田中、未納」の名前


高校は、家から歩いて行ける公立高校を選びました。アンビシャス本社からも目と鼻の先にある、大阪市立南高等学校です。

この学校を選んだ一番の理由は「私服通学OK」だったから。 つまり、制服代がかからないということです。

「行きたい学校だった」というよりは、とにかく一番お金がかからない学校を選んだ、というのが本音でした。

公立高校の授業料は、当時月5000円程度。毎月その金額を学校に持っていき、先生に手渡していました。年で7万円程度ですから、そこまで大した金額ではないかもしれません。

しかし、父は授業料を4月、5月は払ってくれたものの、6月になると払えなくなりました。

そして7月、教室の黒板にこう書かれました。

「6月・7月未納:田中」

クラス全員の前で名前を晒されてしまった…。
今では考えられないことですね(笑)。

そして、その黒板の文字を見た瞬間に、私は決意しました。

「今までもこんな場面はあったけれど、これはもう、父親を頼ってたらあかんということや。自分で稼がないかん」

そして私は、学校が始まる前の早朝の時間に、アルバイトをするようになったのでした。

 

ーーこうして「自分で稼ぐ」と決めた高校1年生の私は、ここから怒涛のアルバイト生活に突入していきます。

次回は、パン屋、サンドイッチ屋、ケーキ屋、ドーナツ屋……短期間でお店を転々とした、アルバイト奮闘記をお届けします。

 


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