前回は、高校時代のアルバイト奮闘記をお届けしました。パン屋からケーキ屋、ドーナツ屋と転々としながらも、自分の生活費はすべて自分で稼ぐ日々。
今回は高校卒業後のお話。実家を失い、それでも前を向いて歩き出した先で、人生を変える仕事と出会います。
スイミングスクールのアルバイトに出会った

高校卒業後、とうとう実家が競売(けいばい)にかけられ、手放さざるを得なくなりました。
こうした何もかも失ったわが家でしたが、この経験を通して強く感じたことがあります。
それは、
「法律を知らない側が不利になる。これから生きるうえで、法律は絶対に覚えておかなければならない」
ということ。
そこで、浪人してアルバイトでお金を貯め、そのお金で大学に行こうと考えました。
そんなある日、求人を探していた時のことです。たまたま、十三にあるスイミングスクールのコーチのアルバイトを見つけました。
実は私、小学校の頃に水泳を徹底的に叩き込まれ、中学でも水泳部に入っていたんです。ここで少し、当時の話をさせてください。
私は幼い頃、幼稚園の浅いプールで溺れた経験があり、それがトラウマで水嫌いになりました。小学校1年生から4年生まではプールに入ることもできず、水泳の授業を一度も受けたことがなかったほどです。4年生の時に、ようやく一瞬だけ水に顔をつけられるようになった程度でした。
ところが5年生になると、先生から「田中君、そんなんじゃあかんぞ!」と授業で無理やり泳がされることに。その時、授業で先生と一緒に水泳を教えてくれていた公務員のおじちゃんが「田中君、夏休み毎日学校のプールにおいで!水泳教えたるわ!」と声をかけてくれました。
そこで、夏休みに毎日プールに通い、指導を受けたところ、夏休みが明ける頃にはクロールと平泳ぎができるようになり、6年生では一気に才能が開花。
なんと、学校で一番速く泳げるようになっていたのです。
中学校に入ると、公立学校ながら器械体操の素晴らしい先生がいたので「器械体操がやりたい!」と入部しました。
しかし、その中学は水泳部もとても強く、地域の精鋭が集まっている学校でした。
ある日、水泳部の先輩から「田中、おまえ水泳うまいんやろ!器械体操部は辞めて、今日から水泳部に入れ!」と無理やり引っ張られて(笑)。
そこでまたさらに水泳が上達するという経緯がありました。
スイミングスクールからフィットネスクラブへ
少し話が長くなりましたが、そのような過去があったので、スイミングスクールのコーチの求人を見つけた時に、「バイトでもこんな仕事があるならやってみたい!」と思い、飛び込むことにしました。
この新たなアルバイト先は、オリンピック選手を育てることを目標に掲げているスイミングスクールで、想像以上にやりがいのある勤務先でした。そこで「オリンピック選手を育てる!」という新たな夢を見つけた私は、いつの間にか大学進学への興味もなくなり、「この世界で生きていこう」と心に決めたのです。
しかし、当時の会社には社員の採用枠がなかったため、その後、京都のスポーツクラブへと転職。そこでも引き続きオリンピック選手を育てる夢に向かって邁進し、3年半勤めたタイミングで、次の道へ進むため退職を決意しました。
仕事が楽しかったのに、なぜ辞めたのかー
実はその会社で、経営陣の覇権争いが勃発。社長が何度も交代し、「田中くんはどっちにつくんや!?」などと、巻き込まれることが増えていきました。
そうした政治的な争いが嫌になり、ある日、会社を退職しようと決めたのです。
その後は、「この業界の仕事は楽しいけれど、お給料は安いし、もっと稼げるところはないか…」と考えていました。
そんな時、知り合いから、「大阪で新しくフィットネスクラブをオープンした方が、支配人を探しているよ。その方も水泳が好きで、オリンピック選手を育てたいと言ってる人やから、田中君、ええんとちゃうか?」と。
でも私は、「支配人か…。一度その立場になったら、そう簡単には辞められないな。やっぱり他を探そう」と躊躇していました。
そんな私の背中を押してくれたのが、母の言葉でした。
「あんた、この仕事好きなんやろ?じゃあ、そのフィットネスクラブ、行ったらええやん。好きなんやろ、この仕事が」
その言葉がすっと胸に落ちて、私は新たな大阪のフィットネスクラブへ、支配人として一歩を踏み出すことにしました。
ーーこうして、母の一言に背中を押され、私はフィットネスクラブの支配人として新たな道を歩み始めた私。
次回は、このフィットネスクラブで出会った衝撃的な一言や、そこから「自分で会社をやるしかない」と決意するまでのお話をしていきます。